宮崎神宮 由緒
社伝によれば、鎮座地は神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた皇孫の健磐龍命(たけいわたつのみこと。阿蘇神社(あそじんじゃ)の祭神)がその縁に因んで創祀したといい、崇神天皇の時代に初めて社殿が創建され、景行天皇の熊襲征討に際して重ねて造営がなされ、更に応神天皇の時代からは『国造本紀』(先代旧事本紀第10巻)に載せる日向国造の祖、老男命(おいおのみこと)が祀るようになったと伝える。
古くから鎮座していたのは確からしいが上古の由緒は不明で、文献上の初見は鎌倉時代初めまで降り、当地の地頭職にあった土持信綱(つちもち のぶつな)が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(こぐや)(現 境外摂社)から建久8年(1197年)に遷座したという記録である。『神皇正統紀』(じんのうしょうとうき)に神武天皇が「日向の宮崎の宮」から東征したと記すように、中世には東征以前に宮崎に帝都があったとする説も定着し、当宮をこれに充てるようになったと思われ(『古事記』に載せる高千穂宮(たかちほぐう。高千穂神社(たかちほじんじゃ))に擬する説もある)、以後神武天皇に対する崇敬から、歴代の領主により深く崇敬された。文明5年(1473年)に伊東祐国(いとう すけくに)が蓮ヶ池(はすがいけ。現宮崎市 村角町(むらすみちょう))と下北方(同下北方町)の一部を奉献したのを始め、永禄3年(1560年)に有馬永純(ありま ながずみ)が社領として2石5斗を寄進、同5年(1562年)には伊東義祐(いとう よしすけ)が下北方・江平(現宮崎市江平町(えひらちょう)一帯)から領地を割いて奉献、更に天正5年(1577年)には島津義久が米穀や幣帛を奉献している。
江戸時代には、延岡藩が当地を所領し、寛永21年(1644年)藩主・有馬康純(ありま やすずみ)が社殿を造営、天保10年(1839年)にも藩主・内藤政義(ないとう まさよし)による修造が行われている。もっとも、神武天皇を祀る古社とはいえ、江戸時代までは地方の1古社に過ぎず、当宮が広く全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古の大号令で「神武創業の始め」に復することが唱導され、当宮が脚光を浴びるようになってからである。
明治6年に 県社と定められた(この時宮崎神社と改称)が、神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受けるようになり、同8年に国幣中社、同18年には官幣大社へと累進した。同32年には総裁を二条基弘(にじょう もとひろ)、会長を島津忠亮(しまづ ただあきら)とする「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、高木兼寛(たかき かねひろ)が幹事長となって全国から寄付金を集めて境内整備を行い、同40年にほぼ現在の姿となったが、更に昭和15年、紀元2600年を記念した拡大整備事業(その規模は橿原神宮に次いで全国2位であったという)で、現在の境内が完成した。戦後は神社本庁の別表神社となり、現在に至っている。