英彦山神宮 歴史 概史
12世紀より西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘(げんこう)3年(1333年)、後伏見(ごふしみ)天皇第八皇子の長助(ちょうじょ)法親王(後の助有(じょゆう)法親王)を座主に迎えて以降、助有法親王の直系が座主を世襲する事となった。現在の社家の高千穂(たかちほ)家はその末裔である。
当時僧坊3000余、四十九窟(行場)を有するといわれたが天正年間(てんしょう。1573~92年)秋月(あきづき)・大友(おおとも)両氏の兵火が及んで奉幣殿をはじめ社殿が焼失、江戸時代初期1616年に小倉藩主 細川忠興(ほそかわ ただおき)が奉幣殿(当時は大講堂)を再建した。
焼き打ちや寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元(れいげん)法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。
明治の神仏分離により修験道が廃止され、彦山座主であった教有(きょうゆう)は還俗し高千穂(たかちほ)と称した。 九州彦山山伏の本山であった霊仙寺(れいせんじ)を廃し神社となって「英彦山神社」に改称し,教有は大宮司となった。1883年に宮司の高千穂宣麿(たかちほ のぶまろ)が男爵を授けられ、華族に列した。1898年(明治30年)に官幣中社に列した。1975年、現在の「英彦山神宮」に改称した。