応神天皇 諡号 諡号か実名か
応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説がある。確実性を増してからの書紀の記述による限り、天皇に和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。第22代清寧(せいねい)天皇のシラカタケヒロクニオシワカヤマトネコ(白髪武広国押稚日本根子、『日本書紀』に因る)のように明らかな和風諡号も見られるが、これはむしろ清寧天皇が後に皇統の列に加えられた架空の天皇である可能性を物語っている(ただし、清寧天皇の和風諡号は実名を基にした物であるため、実在した可能性が高い、とする説もある)。
『日本書紀』には、吉備(きび)臣の祖として御友別(みともわけ)の名が、『古事記』には、近江の安(やす)国造の祖先として意富多牟和気(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「ホムダワケ」と全く同じである。これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は4世紀から5世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが分かる。事実、景行(けいこう)・履中(りちゅう)・反正(はんぜい)の各天皇の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。以上の点から、応神天皇の「ホムダワケ」と言う名も実名だったと、この仮説では見なしている。
なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については、諸説あって明らかにしがたい。『古事記』では、景行天皇が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としている。が、これは観念的説明であろう。