神功皇后 陵
神功皇后の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市 山陵町(みささぎちょう)にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「五社神古墳(ごさしこふん)」(前方後円墳、墳丘長275メートル)。
神功皇后の陵について、『古事記』では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、『日本書紀』では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。
承和(じょうわ)10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務(せいむ)天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん。現 日葉酢媛(ひばすひめ)陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
その後、西大寺(さいだいじ)で「京北班田図」(けいほくはんでんず)が発見され、これにより神功皇后陵が五社神古墳とされ、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)に五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている。
2008年、宮内庁は日本考古学協会などの要請に応じ、五社神古墳の立ち入り調査を許可した。これは、考古学者の要請に答えて古墳の調査が許可された初めての例となった。ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、調査ではさしたる成果は上がっておらず、宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。この古墳は4世紀中から末5世紀初めの築造とされていたが、円筒埴輪列によってやや新しく(5世紀)なるのではないかと推測される。