神功皇后 紀年

 

 

紀年については、『日本書紀』は百済三書(くだらさんしょ)を参照または編入している。 『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が日本の使者、千熊長彦(ちくま ながひこ)に会い、七枝刀(しちしとう)一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。 しかしこの辺の年代はどれも十数年から数十年の誤差が生じている上に複雑なのでどの記録が正しいのかはよくわからない。但しこの『日本書紀』の記述から推測すると二倍暦説は間違いである可能性が高い。 通説ではこの中の七枝刀を、石上神宮につたわる七支刀(しちしとう)のことだと考えられている。

 

· 通常暦説(戦前の説)

 

七支刀の「泰■四年」の部分を普国の秦始4年の西暦268年と考える。暦は従来どおりの物と考える。記紀との誤差は16年。

 

 

· 二運くりあげ説(戦後の説)

 

七支刀の「泰■四年」の部分を東晋の太和4年の西暦369年と考える。百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる。井上光貞(いのうえ みつさだ)も『日本書紀』の編者が神功皇后卑弥呼に比定したため干支を2運繰り上げたという説を支持している。ただし井上秀雄は、百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、とみている。