仲哀天皇 事績

 

 

日本書紀』によれば叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父日本武尊(景行天皇43年死去)をしのんで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日、仲哀天皇は長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。

 

 

8年熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。遺体は武内宿禰により海路穴門(あなと。穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮でされた。『(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。

 

 

· 「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」

(『古事記』)

· 元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」

(『日本書紀』)

 

屯倉(みやけ)は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。