伊弉諾神宮 歴史 概史 ②

 

天正9年(1581年)田村経春(たむら つねはる)は、織田信長より武田勝頼との戦いで先陣を命じられたが従わず切腹となり、田村氏は滅んだと言う。

 

 

江戸時代には徳島藩主・蜂須賀家に崇敬され、元和(げんな)7年(1621年)の黒印状で一宮供領10を得た。また、石上氏が世襲で神職を勤め、当社の祭祀は社家と寺家の両部に司られたが、両部は幾度か争いを起こしている。

 

 

寛文元年(1661年)には当社の縁起である『二柱尊縁起』が作成された。縁起は領主・巡見使の参拝時に面前で読まれるため、社家と寺家のいずれが勤めるかで争いが起こった。『郡家物語』には、宝暦年間に起こった6年に及ぶ『一宮の唯一騒動』の記載がある。

 

 

宝暦(ほうれき/ほうりゃく)2年(1752年)の『郡家物語』により、檀家を持たず一宮領分を配分して祭礼を勤める社家6坊と、別当の妙京寺末の寺家6坊の存在がわかり、この社家6坊が神宮寺と考えられる。しかし、『宮坊旦那追書付ニ付返答書控』によれば、社家6坊のうち東蔵坊・東林坊・円行坊・新坊・実蔵坊の5坊は退転し、宮坊だけが残ったと言う。

 

 

文政8年(1825年)の『淡路草 巻4』の記述から、法相宗とも真言宗とも言われた神宮寺が弘治(こうじ)元年(1555年)に田村氏によって日蓮宗に改宗され、元禄12年(1699年)8月の『宮坊旦那追書付ニ付返答書控』の記述から、改宗に従わない社僧が追放されたとわかる。このため、中世末の一宮の管轄権は田村氏が掌握していたとする説もある。

 

 

明治3年(1870年)に名東県より、それまで2柱だった祭神を伊弉諾尊1柱と定められた。明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、1885年(明治18年)官幣大社に昇格した。1932年(昭和7年)、前述のとおり、祭神に伊弉冉尊を合祀することが認められた。

 

 

第二次世界大戦後には神社本庁が包括する別表神社となり、1954年(昭和29年)には伊弉諾神社から現在の伊弉諾神宮に改称した。

 

 

1995年平成7年)1月17日阪神・淡路大震災で鳥居が倒壊するなど大きな被害を受けた。鳥居は氏子の奉納により、同年11月に神明鳥居へ形式を改め再建された。