伊弉諾神宮 歴史 概史 ①

 

 

文献では、古くは『日本書紀履中(りちゅう)天皇5年条9月条において島に居る「伊奘諾神」の記載や、允恭(いんぎょう)天皇14年9月条に「島神」の記載があり、これらは一般に当社に比定される。

 

 

新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)大同元年(806年)牒によれば「津名神」には神封(じんぷ)13戸が充てられ、さらに天慶(てんぎょう)3年(940年)9月13日の官符で「伊佐那支命神」には5戸が加増されたと見える。『日本三代実録貞観元年(859年)1月27日条では、「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。

 

 

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では淡路国津名郡(つなぐん)に「淡路伊佐奈伎神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

 

 

永万(えいまん)元年(1165年)6月の『神祇官諸社年貢注文』の「淡路国一宮<炭五十籠木五十束>」の記述、元久2年(1205年)4月の『淡路国司庁宣』の「可令早引募一・二宮法華桜両会舞楽料田荒野拾町事」の記述、貞応(じょうおう)2年(1223年)4月の『淡路国大田文』の「一宮社一所 同神宮寺一所」の記述などにより、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて淡路国一宮とされていったことがわかる。このため、一宮大神ともいった。

 

 

また、上記文書から中世の当社の様子が伺える。『淡路国司庁宣』から、国衙が当社と二宮である大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)の祭礼などを管轄しており、両社の法華会(ほっけえ)・桜会(さくらえ)で舞楽が催されたと考えられる。 また、『淡路国大田文』の記述から、鎌倉時代初期には神宮寺があったとわかる。

 

 

当社の別当であった妙京寺(みょうきょうじ)の記録では、弘安3年(1280年)に坂上田村麻呂の子孫と言う田村仲実(たむら なかざね)が社殿を再興した。大永(だいえい/たいえい)5年(1525年)の棟札によれば、田村氏は一宮神主であり領主であった。