三韓征伐 神功46年以降
神功46年以降は『百済記』が構文されている。神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳(とくじゅん)国に遣す。卓淳王の末錦旱岐(まきんかんき)は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(しょうこおう。近肖古王(きんしょうこおう))は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。
神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍 木羅斤資(もくら こんし)と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。
神功51年(251年または371年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。
神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡(ななつこのかがみ)と七支刀(ななつさやのかたな/しちしとう)を献上した。なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和(たいわ)4年とする説がある。この場合、百済が朝貢していた東晋の年号太和4年とされるが、こちらの説の場合には秦の文字を太と書き換えねばならず疑問視する声もある。また西晋の泰始4(268)年だという説もあり、こちらは秦の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。