蹴鞠 歴史 中国
中国の蹴鞠(しゅくきく、拼音: cùjú、IPA: [tsʰuː˥˩ tɕy˧˥])の歴史は紀元前300年以上前の斉(せい。戦国時代)での軍事訓練にさかのぼるとされ、漢代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行われた。唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。宋代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。水滸伝で有名な高俅(こう きゅう)は蹴鞠の才によって出世した。またモンゴル帝国の遠征にともなって東欧にも伝来したと言われている。
その後、明初期には貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠をおぼえて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、蹴鞠の禁止令が出され、蹴鞠は女性の遊戯となった。さらに清における禁止令で中国からはほぼ姿を消した。