賀茂別雷神社 歴史

 

 

創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼(みあれどころ)に賀茂別雷命が降臨したと伝える。

 

 

山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川(かもがわ)の川上から流れてきた丹塗矢(にぬりや)を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄・玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社(おとくにじんじゃ)の火雷神とも大山咋神(おおやまくいのかみ)ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)下鴨神社に祀られている。国史では、文武(もんむ)天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田(みとしろだ)一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。

 

 

延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭月次祭相嘗祭(あいなめのまつり)新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁(こうにん)元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮斎宮(さいぐう)にならった斎院(さいいん)が置かれ、皇女が斎王(さいおう)として奉仕した。

 

 

明治近代社格制度でも官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。