鹽竈神社 歴史 中世

 

 

中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の駅を経て藤原清衡(ふじわらの きよひら)が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治(ぶんじ)2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)和泉三郎忠衡(いずみさぶろう ただひら)より奉納された鉄燈は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。 また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久(けんきゅう)4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されていることからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。

 

 

文治6年(1190年伊沢家景(いさわ いえかげ)源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」(るす)姓を名乗るようになる。以後は留守氏(るすうじ)が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竃神宮寺(しおがまじんぐうじ)も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺(ほうれんじ)に変わり、江戸時代も当社の別当であった。

 

 

14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼(しば いえかね)文和(ぶんな/ぶんわ)3年(南朝の元号では正平(しょうへい)9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持(しば なおもち)は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の吉良貞経(きら さだつね)延文(えんぶん)5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。

 

 

応安(おうあん)8年(南朝の元号では天授(てんじゅ)元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰(うらべの すくね)奥書の『諸国一宮神名帳』には、陸奥国の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本国一宮記(だいにほんこくいちのみやき)では陸奥国一宮は都々古別神社(つつこわけじんじゃ)とされた。この後、近世においては主に大日本国一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった。しかしながら、江戸時代初期の神道者・三喜(たちばな みつよし)が全国の一宮を参拝した際は、『大日本国一宮記』の類本である『吉田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝(えんぽう)6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている。