秋葉権現 奉仕者・社寺・信仰の流行

 

 

江戸時代において遠州秋葉山には禰宜・僧侶(曹洞宗)・修験(当山派)の三者が奉仕していた。 別当は曹洞宗僧侶が務めた。 秋葉寺はもともと新義真言宗であったが江戸時代から曹洞宗に属した。その発端は徳川家康の命で茂林光幡(もりん こうは)が可睡斎から派遣され別当を任ぜられたことによる。寛永2年(1625年)蘆月厳秀(ろげつげんしゅう)が住持の時、曹洞宗と修験との間で内部対立が生じ、禅僧は曹洞宗可睡斎に、修験は当山派修験道の触頭(ふれがしら)である二諦坊(にたいぼう)に助力を仰ぎ裁判となった。寺社奉行では光幡の判物を厳秀派が所持していたことにより、厳秀派の勝訴とし、秋葉寺は曹洞宗に帰属し、可睡斎の末寺となった。

 

 

貞享(じょうきょう)2年(1685年)の貞享の秋葉祭り以降、秋葉権現は火難除けの神として広く知られ、全国各地に秋葉講が結成されて、遠州秋葉参りが盛んになった。安永(あんえい)7年(1778年)には後桃園(ごももぞの)天皇の勅願所となった。