春日神木(かすがのしんぼく) ①

 

 

春日神木(かすがのしんぼく)とは、奈良春日大社(かすがたいしゃ)において、さかき。もしくは梛(なぎ))の枝に春日明神の御神体依代)である神鏡を付けて注連(しめ)をかけて神木とした物。強訴(ごうそ)の際の神威として掲げられることも多かった。

 

 

 

 

春日大社は藤原氏氏社として知られ、明治維新以前は隣接する同氏の氏寺である興福寺と一体の存在であった。

 

 

興福寺の衆徒が強訴を行う際には、春日神木を動かして示威行動を取ることが知られており、これを神木動座(しんぼくどうざ)と称し、中世を通じてしばしば行われた。

 

 

興福寺全体の利害に関わる問題が生じた場合、全僧侶を召集して満山集会(まんざんしゅうえ)を開催する。集会では大衆会議を開朝廷などに対する要求を決定した。要求が受け入れられなかった場合には、衆徒たちは春日大社の社司に要請して大社の本殿及び大宮四所にそれぞれ安置されている神鏡を取り出して神木をあつらえさせ、これを大社本殿脇の移殿(うつしどの)へ移す遷座の儀を行って公武に強訴の予告を行う(神木動座の強訴)。この時点で要求が認められれば神木に付けられた神鏡は本殿に還御して終了となるが、それが無い場合には神木を興福寺金堂に移し、石上神宮(いそのかみじんぐう)吉野勝手明神(かつてみょうじん)両社に神輿(みこし)の派遣を要請、更に場合によっては東大寺などの南都七大寺にも支援を要請する。また、衆徒以外にも興福寺領の荘官が農民田堵(たと)を動員して人数を揃えたと考えられている。準備が整うと、興福寺僧綱(そうごう)を前面に出し、春日大社社司・神人(しんじん。神主)に神木を奉じさせて衆徒・神人が法螺貝の音とともに隊伍を組んで京都に向かって進発する。奈良坂・木津などを経由して、途中一旦宇治平等院に入り、交渉を行って様子を見るが、ここにおいても要求が受け入れられない場合には、京都に神木ごと入洛することになる。通常は勧学院かんがくいん。法成寺(ほうじょうじ)長講堂(ちょうこうどう)に置かれる場合もあった)に神木を安置するのが慣例であるが、場合によっては御所の前に神木をかざして朝廷を威圧した。なおも、要求が認められない場合には神木を京都に安置したまま社司らが奈良に引き上げること(「振り棄て」と呼ばれる)で心理的圧迫を加えた。

 

 

春日神木の動座が行われた場合、特に入洛中は藤原氏の公卿・官人は謹慎・籠居となり、これに従わない者、強訴を非難・無視する者は放氏(ほうし。氏の構成員をその氏から追放すること。放氏処分を受けると氏族の一員としての特権を剥奪され、官人となる資格も失うということで官位も剥奪された。処分とされた。当時は藤原氏の公卿・官人が朝廷の過半を占めていたから、神木の入洛中は朝廷は廃朝状態となり国政は麻痺した。また、検非違使(けびいし)や武家も宇治などに兵を固めて入洛を阻止する姿勢を見せたが、実際に衆徒・大衆に武器を向ければ、今度はその武家を死罪流罪などの重罪に処する様に求める強訴を引き起こすことになるため、最終的には興福寺側からのどのような無理な要求でも罷り通ったのである。これを皮肉を込めて「山階道理」(やましなどうり。山階寺(やましなでら)は平安遷都よりも遥か以前に山階にあった興福寺の前身)と呼ばれた。なお、神木が奈良に戻る「神木帰座」の際には藤原氏の公卿・殿上人(てんじょうびと)が洛外あるいは奈良まで供奉して春日大社に祈謝する事とされていた。また、奉幣使が春日大社及び京都における分社である大原野神社(おおはらのじんじゃ)吉田神社(よしだじんじゃ)の両社に派遣された。