香取神宮 神職 祭祀氏族

 

 

神宮の祭祀氏族は、古くは香取連(かとりのむらじ、香取氏)一族であったといわれる。「香取大宮司系図」によれば、フツヌシ(経津主)の子の苗益命(なえますのみこと、天苗加命(あめのなえますのみこと))がその始祖で、敏達(びだつ)天皇年間(572年?-585年?)に子孫の豊佐登(とよさと)が「香取連」を称し、文武(もんむ)天皇年間(697年-707年)から香取社を奉斎し始めたという。

 

 

このように香取氏はフツヌシの神裔を称する一族であったが、その後同系図によれば、大中臣氏から大中臣清暢(おおなかとみ きよのぶ)が香取連五百島(かとりのむらじいおしま)の養子に入って香取大宮司を、清暢の子の秋雄(あきお)が香取大禰宜を担ったという(ただし人名・時期の信頼性は低い)。以後、平安時代末期までは大宮司・大禰宜とも大中臣氏が独占した。ただし香取神宮は藤原氏の氏神であったため、その補任は中央の藤原氏に管掌されていた。

 

 

康司(こうじ)元年(1142年)に鹿島神宮大宮司の中臣氏一族から香取神宮大宮司への任命があって以降は、香取大中臣氏と鹿島中臣氏とが香取の大宮司職を巡って対立を見せた。両氏は鎌倉幕府や摂関家に働きかけて抗争し、最終的に寛喜(かんぎ)年間(1229年-1232年)頃に大中臣氏側が勝利した。

 

 

この頃から藤原氏の影響も薄れ、大中臣氏一族の内部で大宮司・大禰宜職や社領を巡っての抗争が展開された。この抗争も応安(おうあん)7年(1374年)頃に終息に至り、鎌倉末期・室町期は大禰宜家が主導権を握って安定化した。その後、近世には江戸幕府の統制下に入ったが、抗争は繰り返されていたことが散見される。