香取神宮 特徴
香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(かしまじんぐう。茨城県鹿嶋市)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。
鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両神宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
l 神郡
鹿島・香取両神宮では、それぞれ常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた(令集解(りょうのしゅうげ)や延喜式に記載)。神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったとされる。
l 鹿島香取使
両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、または略して鹿島香取使の派遣があった。伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であった。
l 「神宮」の呼称
『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった。
また藤原氏からの崇敬も強く、藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社(かすがたいしゃ)では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(あめのこやねのみこと。第三殿)よりも上位に位置づけられた。中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両神宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。