鹿島神宮 歴史 神職 ②
主な職は次の通り。
大宮司
「だいぐうじ」。神宮の最高責任者。
古くは中央の大中臣氏から補任されていたが、長元(ちょうげん)年間(1028年-1037年)から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿島氏)が交互に務めるようになり、建長(けんちょう)年間(1249年-1256年)以後は中臣氏が世襲した(近世に塙(ばん)氏を称する)。
大禰宜
「おおねぎ」。庶務をすべ、神体奉戴や献饌も行なった。
貞観8年(866年)には禰宜が確認され、承安(じょうあん/しょうあん)年間1171年-1175年)を大禰宜の初めとして、以後中臣氏が世襲した(近世に羽生(はにゅう)氏を称する)。一時期に鹿島氏(常陸大掾氏)も担っていた。
中世以後は大宮司よりも多くの所領を有しており、神宮で実質的に最も実力を持った。
物忌
「ものいみ」。本殿内陣奉仕役。
古くは神職の未婚の娘から卜定され、中世末からは当禰宜(千富禰宜・物忌代とも)の女が選ばれた。当禰宜(物忌の父)は本来中臣氏であったが、中世末に千葉(ちば)氏流の東氏が継ぎ、物忌の後見役として重きをなした。
物忌は人目に触れるべきでない存在で、数ある神宮の祭事の中でも、本宮祭(御戸開き神事)、奥宮祭、流鏑馬祭、大宮祭、将軍祭、大生神社(おおうじんじゃ)祭の年6回しか出輿しなかったという。初代物忌は神宮皇后の娘の普雷女(あまくらめ)であると伝えられ、終身職であったため、明治の廃絶までで総勢27人を数えるのみであったという。かつて物忌が住した物忌館(ものいみやかた)は、跡宮(あとのみや。境外摂社)の傍とされる。