鹿島神宮 概史 飛鳥時代
『常陸国風土記』には鹿島社に多くの神戸(かんべ/じんこ)、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が設置されたことが見える。また風土記では、大化(たいか)5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す。以上の背景としては大化の改新後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている。
このような朝廷との結びつきには、中臣氏の存在が背景にあったと指摘される。中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民(べみん)を定め、一地方神であった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている。実際、史料には鹿島郡司や社の神職に中臣姓の人物が多く存在する。そして、大化改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという。中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない。
鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、後世の『日本三代実録』や『延喜式』神名帳に記される、陸奥国内の多くの鹿島神の苗裔神(びょうえいしん。御子神(みこがみ))の存在が指摘される。その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上し、その過程で各開拓地で祀られ、最終的に今の宮城県石巻市付近まで影響力を及ぼしたとされる。