富士山本宮浅間大社 関係史料

 

 

『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』 

(するがふじおおみやせんげんじんじゃ しんめほうのうき)

 

 

 

戦国期に武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に、多数の武田家臣が神馬奉納を行ったことに関する記録。原本は現存していないが、武田信堯等連署神馬奉納状写(内閣文庫蔵「賜蘆文庫文書」)、山梨県山梨市矢坪の永昌院(えいしょういん)蔵「兜巖史略」(とうがんしりゃく)などの写本が知られ、奉納に際しては浅間神社社家衆鷹野因幡守徳重が取次を務めたという。江戸時代後期の地誌『甲斐国志(かいこくし)では随所に引用が見られるが、『奉納記』そのものの写本は記録されていない。

 

 

甲斐武田氏においては分限帳(ぶんげんちょう)が現存しておらず、当史料は永禄10年(1567年)の「生島足島神社起請文」や天正10年(1582年)の「天正壬午起請文(てんしょうじんごきしょうもん)とともに武田家臣の実態を知る史料と評価され、『奉納記』は両者の中間にあたる天正3年(1575年)の長篠の戦い以後の家臣団を窺うことのできる史料として重要視されている

 

 

『奉納記』の成立年代について、佐藤八郎(さとう はちろう)は『国志』に記される引用を集成し、成立を浅間大社の遷宮が行われた天正6年(1578年)12月に推定している。一方で、平山優(ひらやま まさる)は永昌院本に記される武田家臣の官途(かんど)受領名道号(どうごう。戒名)、没年等から検討を加え、成立を天正5年1月から5月の間としている。

 

 

また、平山は『国志』の記録と永昌院本の比較検討を行い、永昌院本の方が記載された家臣名が多いことを指摘し、『国志』編纂に際して参照された史料は全体の一部であった可能性を指摘している。一方、『国志』の記録には永昌院本に登録されていない人物も含まれることから、永昌院本もまた全体の一部であったとしている。