富士山本宮浅間大社 境内 本宮 社殿

 

 

社殿は慶長9年(1604年)に徳川家康の造営によるものである。宝永地震宝永(ほうえい)4年(1707年))や安政東海地震嘉永(かえい)7年11月4日(1854年))などで崩壊した建物もあり、現在は本殿・拝殿・楼門が現存している。安政東海地震にあたっては『大地震に而御宮大破損記』が記され、その被害の様子を伝えている。室町時代にも造営が試みられており、富士上方や富士下方の諸役等が造営の費用として賄われるなどしているが、戦乱の世の中で造営は円滑に進むものでは無かったようである。乱などにより度々破損することもあり、例えば河東(かとう)の乱の際破損した社殿の造営なども行われている。またこのとき、社人の「清長」(一和尚職)「春長」(四和尚職)が造営関係の処務を先導していた。

 

 

本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。屋根は檜皮葺であり、この本殿の特徴的な形態は「浅間造(せんげんづくり)と称される。

 

 

各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚(しゅろ)の紋」が附され、蟇股には菊花紋(きくかもん、きっかもん)葵紋(あおいもん)五三桐紋(ごさんのきりもん)が並んで附されている。『富嶽之記』という江戸時代の記録に「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」とあり、実際に現在も菊花紋と葵紋が並ぶ装飾が現存している。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。

 

 

これらの造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料にもその旨の記載がある。またこの造営における正遷宮の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという。

 

また古くは社僧や垢離(こりば)などが存在し、神仏習合の形態があった。現在は見られないが「三重塔」といった仏教的建造物も境内に位置しており、寛文10年(1670年)の社殿配置図に見える。