九頭竜伝承 猪名川・五月山一帯の九頭竜伝承 ①
久々知妙見宮(くくちみょうけんぐう)は清和源氏の祖、源義仲(みなもとの よしなか。または多田満仲 912年? - 997年)が開基したと伝わる妙見宮(みょうけんぐう)である。
天徳(てんとく)元年(957年)源満仲が矢文を放ったところ、岩に当たった。その岩を矢文石と名付けて、その地に北辰星(ほくしんせい。妙見宮)を祀ったと伝わる。その後、天禄元年(970年)摂津の国守に任ぜられたとき、源満仲が新しい館をどこに築こうか思い悩み、同国一の宮の住吉大社(すみよしたいしゃ)に参籠した。参籠して二十七日目、『北の空に向って矢を射よ。その矢のとどまる所を居城とすべし』との神託を受けて、満仲は鏑矢(かぶらや)を放った。家来を引き連れた満仲は、空高く五月山(さつきやま)を越え放たれた矢を追いながら鼓ヶ滝(つづみがたき)付近まで来た時、白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来た。この場所は「矢を問うたところ」として、『矢問(やとう)』という地名で残っている。
満仲が老人に教えられた場所に行ってみると、河水をたたえた湖(沼)があり、その湖の主の九つの頭をもった雌雄二頭の大蛇(九頭龍)の内の一頭の大蛇大龍の目に射た矢が刺さり、暴れまわっていた。一頭はこの地で死に血水跡はまるで紅の河のようになって流れた。もう一頭は死に物狂いに山を突き破り飛び出し、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出た。龍はしばらく鼓ヶ瀧の滝壷の中で生きていたが大水害の度に鶯の森(うぐいすのもり)、(川西市)天王宮と下流域に流されて行き、ついに昇天した。後に、その地には12以上も鳥居の立ち並ぶ白龍神社(はくりゅうじんじゃ)が建立され祀られることとなる。湖沼の水は干き、よく肥えた土地が残り、多くの田畑が出来ることとなった。そのため 後に「多田」という地名が付けられる。村人等は九頭龍の犠牲の御陰で田畑が拓かれた事を甚く感謝し、九頭龍大明神、九頭龍大権現、白龍大神と崇め御祀りした。満仲は、この地に居城を築き多田源氏(ただげんじ)を名乗った。
少なくとも1988年までは、上記の九頭龍が死んだ場所として「九頭死(くずし)」という地名が残っていた。現在は「寿久井(すくい)の地蔵尊」という地名の付近。