白山信仰 歴史 白山修験

 

 

白山修験は、白山頂上本社、中宮八院(護国寺(ごこくじ)、昌隆寺(しょうりゅうじ)、松谷寺(しょうこくじ)、蓮花寺(れんげじ)、善興寺(ぜんこうじ)、長寛寺(ちょうかんじ)、涌泉寺(ゆうせんじ)、隆明寺(りゅうみょうじ))、下山七社(白山寺白山本宮、金剱宮、三宮、岩本宮、中宮、佐羅宮、別宮)で一山組織を成し、「白山衆徒三千を数う」「馬の鼻も向かぬ白山権現」といわれるほど、中世には加賀国を中心に宗教的にも政治的にも隆盛を極めた。

 

 

白山修験は熊野修験に次ぐ勢力だったといい、特に南北朝時代北朝方の高師直(こうの もろなお)吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となった際には、吉野熊野三山間の入峯が途絶したため、白山修験が勢力を伸ばし、日本全国に白山信仰が広まった。

 

 

源平盛衰記(げんぺい せいすいき/じょうすいき)や『平家物語』に記された白山衆徒(僧兵)が、対立した加賀国守を追放した安元事件に代表されるように、加賀国では白山修験は一向宗(加賀一向一揆)と並んで強大な軍事力を有する教団勢力として恐れられた。しかし、戦国時代には一向宗門徒によって焼き討ちにされて加賀国では教団勢力は衰退したが、江戸時代になると加賀藩主前田家の支援により復興された。

 

 

白山修験の僧兵は山門(延暦寺)の僧兵と結びつき、特に霊応山平泉寺は最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝わる。