白山比咩神社 歴史 室町時代 加賀一向一揆の影響

 

 

白山比咩神社に関しては、室町時代中頃までは、手取川上流の西谷(大日川(だいにちがわ)沿い)・東谷(手取川:昔の牛首川(うしくびがわ)沿い)・尾添川(おぞがわ)沿いは山内庄と総称され「白山権現の御庭所」とされ、武家領主の統治しない地であった。文明3年、本願寺8世蓮如上人によって、吉崎に道場が開かれ北陸に浄土真宗を広められた。この加賀一向一揆本願寺支配で、手取川上流 白山麓山内庄の「白山権現の御庭所」は加賀国能美郡224村に組み入れられた。白山信仰は、弥陀の本願を信じあの世の往生を願えという真宗の教えに取って代わられ、本願寺教団一向一揆門徒衆の加賀国内での急進化(ものとり信心・他宗誹謗)で、白山本宮は神給田からの年貢米収入を失い困窮した。文明12年(1480年)10月に大火で白山本宮は全焼し三宮の地に避難し100年以上再建されなかった。

 

 

加賀一向一揆は、先ず武士・農民の門徒集団が、長享(ちょうきょう)2年(1488年)加賀の守護富樫政親を金沢の高尾城に攻め滅ぼした。剱村の金劔宮が残っていたが、金剱宮の南隣の高台に加賀一向一揆の主要寺の一つ、清沢願得寺(きよさわがんとくじ)が新しく建立されていて、享禄(きょうろく)4年(1531年)に発生した享禄の錯乱(大小一揆。だいしょういっき)は大一揆の門主本願寺と小一揆の門徒加州三ヵ寺の加賀国支配権争奪の内部抗争で、本願寺門主軍の三河勢が朝倉氏の越前国を迂回し、手取川上流に追詰められていた本願寺門主軍と合流して大軍となり手取川を攻め下り清沢願得寺を攻め落した。この折、下方の隣地に古代から鎮座していた金劔宮の社寺堂塔は延焼で焼け落ち、この戦乱で白山七社の白山衆徒は滅亡した、と云う。以後織田信長配下の武将柴田勝家らが金沢御坊を攻め落とすまでのおよそ100年間、加賀は「百姓のもちたる国」といわれ、中心が金沢へ移った。

 

 

加賀一向一揆の本願寺支配が定まった頃、天文23年(1554年)は白山山頂に大きな火山活動があり剣峰が大きく崩れ消失、白山三峰だった昔の山容が一変、山麓の農作物が被災した。領民の一向一揆を恐れる領主には、加賀の白山が噴火した災害原因は明かに加賀一向一揆のせいだと領民の本願寺一向宗(浄土真宗)禁止理由に使う者も出た。白山の火山活動は以後、時折り小規模に江戸時代前期の万治2年(1659年)まで続いた。

 

 

100年後に織田軍が侵攻し、織田軍の佐久間盛政柴田勝家らにより一向一揆門徒が武力抵抗続けた地区は順次攻め滅ぼされ、加賀一向一揆衆が最後に立てこもった山内庄の鳥越城(とりごえじょう)二曲城(ふとげじょう)周辺は落城後も一帯の山狩りで人が殺し尽くされ長年住人が絶えた、と云う。加賀一向一揆を鎮圧後、能美郡山内庄の西谷・東谷は越前国を領国とした柴田勝家の一族が領国とした。