白山比咩神社 歴史 神仏習合

 

 

平安時代中期(9世紀頃)になると、延喜年間頃から神祇は権化で仏が本地の本地垂迹説の仏教理論が生まれた。修験道が日本各地の神地神山を道場に選び、天台宗真言宗に属した山霊の神秘による修行で病災を除く霊験祈祷力の体得を目指す行者達が増えるに従い、白山比咩神社の「加賀の白山」も自然崇拝の山から修験者の山岳修行の地になり、本地垂迹の神仏習合思潮に彩られた修験の霊場へと変質を遂げるようになった。

 

 

現在本社境内のある白山山町へは、天長9年(832年)ごろに白山の加賀馬場・越前馬場・美濃馬場が開かれたとされ、加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山道(禅定道。ぜんじょうどう)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に調えられていった。白山本宮(白山比咩神社の別名)は歴史的に「加賀の白山」として修験道に深いかかわりを受け、平安時代中期から鎌倉時代、室町時代前期まで約500年間栄えた。

 

 

久安(きゅうあん)3年(1147)4月に、越前禅定道筋の社堂(白山越前馬場)の中心である平泉寺延暦寺末寺化の動きを示すと、白山比咩神社の神宮寺、白山寺も同月に延暦寺山門別院となり(白山之記)、比叡山の地主神・日吉七社に倣い、本宮・金劔宮(きんけんぐう)・三宮(さんのみや)・岩本宮(いわもとぐう)・中宮(ちゅうぐう)・佐羅宮(さらのみや)・別宮(べっくう)という白山七社(はくさんしちしゃ)を形成した。

 

加賀馬場において、古代はこの地方の豪族、上道氏(かみつみちうじ)が神主、長吏(ちょうり)藤原氏の末裔、院主には功労で順次就任した。江戸時代幕末まで白山本宮長吏の役は白山本宮と白山寺を統括し、かつ白山七社惣長吏を兼帯し、他の6社の長吏と馬場全体を統括した。惣長吏は僧名に「澄」の通字を用いて真弟(実子)相続の結縁的な世襲制であった。仏教施設も加賀国 白山信仰の仏教寺院として、白山五院(山代庄(やましろのしょう):石川県加賀市内)・中宮八院(軽海郷(かるみごう):石川県小松市を中心)・三ヶ寺 が整った、と「白山之記」に伝わる。