白山比咩神社 歴史 白山比咩神の始まり

 

 

広い平野から青く霞む山々の上に白く輝く白山(しらやま)は、古代から農作における水の恵みの神、神体山として遥拝され、沖の漁と航海には山だめの標であったと伝わる。

 

 

「白山(しらやま)さん」と大和言葉で親しまれ白山比咩大神様(しらやまひめのおおかみさま)を祀り白山本宮である加賀一ノ宮の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の創建は、社伝では神話の時代に近い崇神天皇7年(前91年) 舟岡山に「まつりのにわ」が祀られてからとされ、応神天皇28年(297年)に十八講河原に下り、洪水で度々流失した、と伝わる。元正天皇霊亀2年(716年)に勅命で他所より高い安久濤の森に遷り社殿造立があり、嘉祥(かしょう)元年(848年)45棟の社殿堂塔が整ったと伝わる。

 

 

平安時代延喜年間の「延喜式神名帳」には白山比咩(しらやまひめ)神社は加賀国 石川郡 10座中の筆頭に掲載される。

 

 

文献史料の確実な初出は、仁寿(にんじゅ)3年(853年)10月に従三位に初叙された。貞観(じょうがん)元年(859年)正月27日には正三位に昇叙せられた。平安時代は、天皇即位の一代一度大神宝使(だいじんぽうし)・大奉幣使(だいほうへいし)を京畿七道諸神の1神として受けていた神でもあった。

 

 

社伝「白山之記」(「白山縁起」以下同じ)では、内の鳥居樫高(白山市鶴来地区)、二の鳥居は槻橋(白山市月橋町)、総門は北陸道神符小河にあり、旅人は総門で白山を遥拝して通り、また神符を受けたと伝える。社伝はさらに長和(ちょうわ)5年(1016年)に加賀国7つの湊から贄(にえ)を受け豊漁祈願の御贄講祭が始ったと伝わる。

 

 

平安時代末期(11世紀末)、加賀国禅定道筋の白山系社堂(加賀馬場)の中心的存在であった当社は加賀国一宮とされ、一国の神社を代表とする立場から勧農を目的とした国衙(こくが)祭祀を行った。白山を祭る社である白山本宮として、末社・関係社はこの時代に越後(新潟県)・能登・加賀(ともに石川県)まで広く存在、と伝えた。