熊野三山検校 歴史 ③
以後、歴代の足利将軍は、乗々院の所領と権益を手厚く保護し、聖護院が14世紀末期から15世紀前半にかけて20代検校で聖護院門跡であった道意(どうい)のもとで完全に三山検校を重代職化してから、乗々院は三山奉行を重代職とするだけでなく聖護院の筆頭院家の地位をも獲得した。さらにこの時期、乗々院が熊野先達職を安堵するようになり16世紀前半までこの状態が続いたが、16世紀後半の25代道澄(どうちょう)の時代になると聖護院門跡が熊野先達職を安堵するとともに、年行事職を与えその地域の檀那の参詣案内や祈祷、さらに域内の山伏を支配する権限を与えるようになった。こうして、15世紀前半~16世紀後半にかけて、聖護院門跡を中心に修験道教団本山派が成立したのである。
なお、応仁の乱に際して聖護院と若王子社は兵火にかかって焼失したが、1545年(天文(てんぶん/てんもん)14年)および1564年(永禄(えいろく)7年)の令旨に見られるように、熊野三山検校職それ自体は本山派教団の勢力拡大と共に存続した。
また、1575年(天正(てんしょう)3年)に織田信長は山城国西院内の30石を寄進し、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に同じく山城国岩倉内長谷(うちながたに)の75石、1591年(天正19年)には山城国吉祥院内の8斗8升を寄進した。秀吉から寄進された長谷と吉祥院は江戸時代に入ってからも御朱印地として安堵された。
熊野三山検校は明治元年(1868年)まで存続したが、最後の検校であった宮入道信仁親王が還俗し、明治3年(1870年)に北白川宮(きたしらかわのみや)を創設して北白川宮智成(きたしらかわのみや さとなり)親王を称したことをもって終焉を迎えた。