熊野別当 歴史 衰退から終焉へ ②
さらに、鎌倉幕府は、和泉国・紀伊国の両国で停止していた守護職を再設置し、逃亡者の探索に当たらせた。また、鶴岡八幡宮の別当であった定豪(じょうごう)を新熊野検校に任じ、三山の直接掌握を図った。こうした中、承久の乱のあいだ静観につとめた湛政が安貞(あんてい)3年(1222年)に死去すると、承久の乱に関わらなかった琳快(りんかい)が25代の別当に就任し、湛顕の弟湛真が権別当に就任した。しかしながら、琳快は、上皇方に加担した元羽黒山(はぐろやま)別当 尊長(そんちょう)をかくまった疑いをかけられて下野国足利に配流された。政治力のある後ろ盾を得られなくなった熊野別当には、こうした鎌倉幕府の介入を斥けることはもはや出来なかったのである。
26代別当の快命、ついで27代別当の湛真(たんしん)以後、新宮家と田辺家はあらためて交互に別当職を努めることになった。その後、承久の乱の処罰や追及が弛緩したのか、上皇方で戦った後、姿を隠していた尋快が28代の別当に就任する一幕も見られた。31代別当には田辺家嫡流の正湛が就くが、正湛が弘安7年(1284年)9月に還俗し、宮崎姓を称したことにより熊野別当職を担う家系としての熊野別当家は断絶したと『熊野年代記』は伝えている。しかし、田辺(小松)家嫡流の正湛が新宮行遍(ぎょうへん)家の通姓である宮崎を名乗るのは不自然に過ぎるし、信憑性に欠ける。しかも、これ以後も熊野別当の名は確実な史料中に確認されているので、熊野別当家は断絶せず、続いていたと見なすべきであろう。
ところで、熊野別当家勢力が衰え始めた13世紀末期になると、那智山は那智執行、滝本執行、宿老(しゅくろう)、在庁との合議制によって一山運営をおこなうようになり、熊野三山の中で半ば独立した存在になっていった。