熊野那智大社 歴史 那智一山の組織

 

 

那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料は残されていない。近世後期に編纂された『紀伊続風土記(きいぞくふどき、きいしょくふどき)などによれば、那智山には禰宜神主などの神職は存在せず、那智山は、その全員が社僧(しゃそう)という修験者達の霊場であった。中世に入り、熊野三山を管理する京都の熊野三山検校の下で那智一山の管理組織(那智執行・滝本執行・宿老・在庁にもとづく合議制度)が整備された。近世に入り社僧が東座と西座に分けられたが、両座にはそれぞれ東の長官、西の長官が置かれ、執行と呼ばれつつ一山を管理した。また両座の下には10人で構成する宿老をはじめ、12人の講誦、75人の衆徒、66人の滝衆、85人の行人、12人の如法道場(にょほうどうじょう)役人と7人の穀屋(こくや。本願)などがいて組織を構成した。

 

 

『紀伊続風土記』によると、近世のある時期に東座執行を受け持ったのは潮崎尊勝院(しおざきそんしょういん)で、山内でも最重要とされる飛滝権現を祀り、滝衆や行人を統轄し、近世のある時期に、西座の執行を西仙滝院が担当した後、米良実方院に替わったという。 尊勝院・実方院および御師(おし/おんし)と呼ばれる坊・院は、中世・近世を通じ、全国各地の旦那だんな。檀那)場からの参詣者を泊める宿坊を営んでいた。