松尾大社 特徴 秦氏による奉斎
松尾大社は、古代から渡来系氏族の秦氏(はたうじ)に奉斎されたことで知られる。秦氏は、秦王朝の始皇帝の後裔とする弓月君(ゆづきのきみ)の子孫を称したことから「秦」を名乗った氏族で、同様に漢王朝の遺民を称した漢氏(あやうじ)とともに渡来系氏族を代表する氏族である。同じ渡来系の漢氏が陶部(すえべ/すえつくりべ)・鞍作部(くらつくりべ)・工人(こうじん)等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は秦人部・秦部等の農民集団から成り、これらの人々は日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる。
秦氏発展の経緯として、『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)によるとまず秦氏は大和国の葛城に定住したという。その真偽は明らかでないが、5世紀後半から末頃になると山背(やましろ)地方(のちの山城国)に本拠を置いたとされ、以後は山背地方で経済基盤を築き、これが長岡京遷都・平安京遷都の背景にもなった。山背地方のうち特に重要地とされたのが紀伊郡深草と葛野郡(かどのぐん)嵯峨野であり、紀伊郡の側では現在も氏社として伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ。京都市伏見区)が知られる。葛野郡の側では桂川の葛野大堰(かどのおおい)に代表される治水事業によって開発がなされ、現在も一帯には氏社として松尾大社のほか木嶋坐天照御魂神社(このしまにます あまてるみたまじんじゃ)・大酒神社(おおさけじんじゃ)、氏寺として広隆寺(こうりゅうじ)が残る。秦氏に関する文献は少ないため上に挙げた神社同士の関係は明らかでないが、松尾大社はそれらのうちで最も神階が高く、秦氏のゆかりとして第一に挙げられる神社になる。
なお、前述のように松尾大社祭神の大山咋神・中津島姫命はそれぞれ日吉大社(ひよしたいしゃ)・宗像大社(むなかたたいしゃ)と結びつく神で、元々は秦氏特有の神ではなかった(他氏の神の勧請)とされる。祭神が秦氏特有でないのは伏見稲荷大社・木嶋坐天照御魂神社も同様で、いずれの社でも秦氏が入植の際に入植以前の祭祀を継承する形を採ったためと見られている。このように在地神を尊重・継承する傾向は、秦氏の祭祀姿勢の特徴に挙げられる。