山王信仰 歴史 地主三聖

 

 

延暦寺の第18代座主であり、比叡山中興の祖とされる良源(りょうげん。元三大師(がんざんだいし))は、天禄(てんろく)3年(972年)に、比叡山の「横川」(よかわ)を、東塔・西塔に匹敵する地位を持つ独立地区として認めた。もともと、横川の発展には良源が大きく関わっており、その独立の裏にも、良源の意向があったとされる。以後、良源の意向は、古くから存在する東塔・西塔よりも、横川に大きく影響するようになった。

 

 

独立した横川は、西塔と同じように独自の地主神を求め、聖真子(しょうしんし)を信仰するようになった。聖真子の信仰は、既に、康保(こうほう)5年(968年)に認められるとされ、「聖真子」の名は法華経により、正統な仏法の後継者を意味するもので、神名であると同時に法号であり、日本古来の神々の系譜から切り離された独自のものとされるなど、神仏習合の最たるかたちを示しているとされる。

 

 

ここに、良源の思惑により、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の「地主三聖」(じしゅさんせい)が成立した。

 

 

だが、円珍によって定められた「両所三聖」を信仰していた僧たちは、良源に導かれて成立した「地主三聖」の信仰に反発することとなった。良源は「地主三聖」の信仰に反対する僧たちを僧籍から除名するなどし、後の山門・寺門分裂への流れを生み出していくこととなる。