山王信仰 歴史 両所三聖

 

天長2年(825年)に、天台宗の第2代座主である圓澄(えんちょう)が、延暦寺の西塔を開いた。以後、西塔は独自色を深め、それまでの「東塔」での地主神信仰に対応させるかたちで、小比叡神(こひえのかみ)を祀るようになった。小比叡神には、八王子山の磐座の神である大山咋神が勧請され、小比叡峯にある磐座に神が宿るとされた。

 

 

西塔の独立により、最澄が当初祀った諸山王は統合され、東塔と結びついて、比叡神または大比叡神と呼ばれるようになった。西塔で祀られる神も山王と呼ばれたため、「山王」は東塔と西塔で二極化することとなった。

 

 

その後、天台宗の第5代座主であり、夢で様々な啓示を受けたという伝承が残されている円珍(えんちん)が、円珍に夢で入唐を勧めたとされる「山王明神」を、自身の坊に祀るようになった。このため、それまでは最澄の創建として、千手堂または千手院と呼ばれていた円珍の坊が、山王院と呼ばれるようになった。このように、山王明神の信仰は、円珍が個人的に祀ったことから始まった。

 

 

こうして、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・比叡山王(山王明神)の「両所三聖」(りょうじょさんせい)が成立した。なお、円珍にとっては、「両所三聖」の中でも山王(山王明神)は別格で、「両所二聖」を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ「比叡山」そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に大きな信仰対象であったといわれる。