津島神社 歴史

 

 

社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊(こうれい)天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明(きんめい)天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。弘仁9年(810年)に現在地に遷座し、嵯峨(さが)天皇より正一位神階と日本総社の称号を贈られ、正暦(しょうりゃく)年間(990年~994年)には一条(いちじょう)天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる。しかし、延喜式神名帳には記載されておらず、国史にも現れない。年代が明確な史料では、承安(じょうあん)5年(1175年)の名古屋七寺(ななつでら。長福寺(ちょうふくじ))蔵・大般若経奥書に名前が見えるのが最初であり、実際には藤原摂関時代の創建と見られる。国内神名帳考異稿(元本・貞治年本国帳:南北朝)には、貞治本にはその名前が見えず、元亀本他に依拠するとする。正一位上 津嶋牛頭天王。

 

 

東海地方を拠点とした織田氏は当社を氏神として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋木瓜紋(もっこうもん)は当社の神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、当社を厚く保護した。江戸時代には尾張藩主より1293神領を認められ、後に幕府公認の朱印地となった。厄除けの神とされる牛頭天王を祀ることから、東海地方や東日本を中心に信仰を集め、各地に分社が作られた。津島市の市名はこの津島神社の門前町が発祥である。

 

 

明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社とした。明治6年(1873年)に県社に列格し、大正15年(1926年)に国幣小社に昇格した。神社のすぐそばに天王川公園がある。公園の中央には楕円形の池があるが、これは、江戸時代まで町の中を流れていた佐屋川(さやがわ)木曽三川分流工事のさい、洪水対策で廃川となり、その支流・天王川もせき止められたものである。牛頭天王は排斥されたが、神社の祭りは尾張津島天王祭として、今も「天王」の名が残っている。