太宰府天満宮 歴史 ①

 

右大臣であった菅原道真は昌泰(しょうたい)4年(901年)に左大臣・藤原時平(ふじわらの ときひら)らの陰謀によって筑前国大宰府員外帥(いんがいのそち)として左遷され、翌々年の延喜(えんぎ)3年(903年)に同地で死去した。死後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車(ぎっしゃ、ぎゅうしゃ)が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒保行(うまさけのやすゆき)が廟(びょう)を建立、天原山庿院安楽寺(たかまがはらやま みょういん あんらくじ)と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣・藤原仲平(ふじわらの なかひら)が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで死去。狼狽した朝廷は、延長(えんちょう)と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児 慶頼王(よしよりおう/やすよおりおう)が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去してしまった。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王ゆたあきらしんのう。朱雀(すざく)天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平(じょうへい)元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多(うだ)法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。寛和(かんな)2年(986年)、道真の曾孫・菅原輔正(すがわらの すけまさ)によって鬼すべ神事が始められるようになった。