道鏡事件 宇佐八幡宮側の内部事情説
また、道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もある。
山上伊豆母(やまかみ いずも)によれば、天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年(749年)に宇佐八幡宮から祢宜の外従五位下・大神社女(おおが の もりめ)と主神司従八位下・大神田麻呂(おおが の たまろ)が建設中の東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)像を支援すると言う神託を奉じて平城京を訪れた。これによって宇佐八幡宮は封戸(ふこ)と「八幡大菩薩」の称号を授けられ、これを勧進した両名にもそれぞれ朝臣(あそん、あそみ)の姓と従四位下と外従五位下の官位が授けられた。ところが、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754年)にはこの時の両名が薬師寺(やくしじ)の行信(ぎょうしん)と組んで厭魅(えんみ。呪術で人を呪い殺すこと)を行ったとして位階と姓の剥奪と流刑に処せられた。
これは宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と律令制・鎮護国家が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだと考えられる。翌年には宇佐八幡宮から再神託があり、先年の神託が偽神託であったとして封戸の返却を申し出たとされている。これも朝廷からの宇佐八幡宮への圧迫の結果であると見られる。
このような路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら積極的に祈祷を行うなどの前代の男巫(だんふ)的要素を併せ持った道鏡が政権の中枢に立ったことによって、宇佐八幡宮側が失地回復を目指して道鏡側に対して接触を試みたと本説は解釈する。