道鏡事件 道鏡の皇位簒奪疑問説 

称徳天皇首謀説

 

 

中西説に対して、細井浩志(ほそい ひろし)は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に“不正の暴露”などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判した。

 

 

 

· 細井は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の神護景雲3年10月の詔勅によって称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調している事から、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。

 

 

· また細井は、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしている。