道鏡事件 道鏡の皇位簒奪疑問説
神託由義宮遷都説
中西康裕(なかにし やすひろ)は、以下のような解釈を提出している。
· 道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにもかかわらず称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたという説は「後付」ではないか。
· 最初の神託は皇位継承以外の問題(道鏡の故郷である河内国弓削の由義宮(ゆげのみや/ゆげぐう)遷都はこの年に行われた)に関するものであって、これに乗じた藤原私(恐らぬくは藤原永手(ふじわらの ながて)とその弟の藤原楓麻呂(ふじわらの かえでまろ)か)が和気清麻呂を利用して白壁王あるいはその子である他戸親王(おさべしんのう。称徳天皇の父・聖武天皇の外孫の中で唯一皇位継承権を持つ)を立太子するようにという神託を仕立て上げようとしたことが発覚したために清麻呂が流刑にされたのではないか。
しかし、この神託由義宮遷都説は根拠が憶測の域を越えるものではないとする見方もある。また、他戸王が立太子後に藤原氏によって廃位されて後に変死しているという指摘もある。その一方で、称徳天皇や道鏡が清麻呂を流した事で2番目の神託を否認した以上、最初の神託に基づいて道鏡への皇位継承を進めることも可能であった筈なのに事件以後に全くそうした動きを見せていない事や逆に藤原氏らの反対派がこの事件を直接の大義名分として天皇や道鏡排除に積極的に動いていない事から、道鏡がこの事件に深く関わっていたとする証拠を見出す事は困難である。また、白壁王の擁立については藤原氏一族は一致していたものの、その次の天皇については早い段階で白壁王の子供のうち、他戸王を推す藤原永手ら北家(ほっけ)と山部王(やまべのおおきみ。後の桓武天皇)を推す藤原百川(ふじわらの ももかわ)ら式家(しきけ)との間で意見の対立があり、他戸皇太子の廃位も政権の主体が北家から式家に移った直後に発生している事から、北家主導下で光仁擁立→他戸立太子が行われた事と式家への政権移行後にその廃太子が行われた事には矛盾は無いと考えられている。