飛梅 飛梅伝説
平安時代の貴族・菅原道真は、平安京朝廷内での藤原時平(ときひら)との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなった延喜元年(901年)、屋敷内の庭木のうち、日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ。その時、梅の木に語りかけるように詠んだのが、次の歌である。
東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな
───初出。寛弘(かんこう)2- 3年(1005- 1006年)頃に編纂された『拾遺和歌集』巻第十六 雑春。
東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
───「春なわすれそ」の形の初出と見られる。治承(じしょう)4年(1180年)頃の編纂と考えられる『宝物集』(ほうぶつしゅう)巻第二。
現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。
伝説の語るところによれば、道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみのあまり、みるみるうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったという。しかして梅と松は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んだ。ところが松は途中で力尽きて、摂津国八部郡(やたべぐん)板宿(いたやど。現・兵庫県神戸市須磨区 板宿町(いたやどちょう))近くの後世「飛松岡」(とびまつおか)と呼びならわされる丘に降り立ち、この地に根を下ろした(これを飛松伝説と言う)。一方、ひとり残った梅だけは、見事その日一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという。
飛梅伝説の現実的経緯としては、一説に、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行(うまさけ やすゆき)が株分けの苗木を植えたものとも、道真を慕った伊勢国度会郡(わたらいぐん。現・三重県度会郡)の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持ち出した苗木を献じたものともいわれている。
道真を慕った梅が飛来したと言い伝えられ、道真が自ら梅を植えたとも考えられるこの飛梅伝説は、他の地方にも見られ、若狭国大飯郡大島(現・福井県大飯郡おおい町大島半島の大島)の宝楽寺(ほうらくじ)、備中国羽島(はしま。現・岡山県倉敷市羽島)、周防国(すおうのくに)佐波郡(さばぐん)内(現・山口県防府市松崎町)の防府天満宮(ほうふてんまんぐう)などが知られている。
能の演目『老松』(おいまつ)では、梅の精を紅梅殿(こうばいどの)とよび、男神・女神として擬人化されている。