節分 概要
季節の変わり目には邪気(じゃき/じゃけ/ざけ)(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊祓い行事が執り行われる。
節分の行事は宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。
「土牛童子」(どぎゅうどうじ)ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。陽明門(ようねいもん)および待賢門(たいけんもん)には、青色のものを、美福門(びふくもん)および朱雀門(すざくもん)には、赤色のものを、郁芳門(いくほうもん)、皇嘉門(こうかもん)、殷富門(いんぷもん)および達智門(たっちもん)には、黄色のものを、藻壁門(そうへきもん)および談天門(だんてんもん)には、白色のものを、安嘉門(あんかもん)および偉鑒門(いかんもん)には、黒色のものを、立てる。『公事根源』(くじこんげん)十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。
これは、平安時代頃から行われている「追儺」(ついな)から生まれた。
『続日本紀』慶雲(けいうん/きょううん)三年十二月の条によると706年にこの追儀が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とある)、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。
『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)(瑞渓周鳳。ずいけいしゅうほう)によると、1447年に「鬼外福内」(おにはそと ふくはうち)を唱えたと記されている。
近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊(ひいらぎ)の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯。ひいらぎいわし)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった。