手研耳命 記録

 

日本書紀』神武天皇即位前紀 戊午年(即位3年前)条によると、手研耳命は神武天皇東征に従い、熊野の荒坂津(あらさかのつ。三重県度会郡 紀勢町(きせいちょう)錦か)において丹敷戸畔(にしきとべ)を討ったという。

 

 

また同書綏靖天皇即位前紀 己卯年11月条によると、神武天皇の没後、手研耳命は異母弟の神八井耳命(かんやいみみのみこと)・神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのすめらみこと。のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした。そしてこれを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、手研耳は片丘(かたおか。奈良県北葛城郡王寺町香芝町上牧町(かんまきちょう)付近か)の大室に臥せっていたところを襲われ、討たれたという。

 

 

古事記』でも同様の説話が記されるが、『日本書紀』と異なり多芸志美美命(手研耳命)は神武天皇正妻の伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと、媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ))を妻にしたという。さらに、彼女と神武天皇との間に生まれていた異母弟3人(日子八井命(ひこやいのみこと)・神八井耳命・神沼河耳命)を弑逆(しぎゃく)しようと計画していたが、3人は伊須気余理比売命の歌で難を逃れたと記されている。

 

 

 

※弑逆(しぎゃく・しいぎゃく)

臣下・子など目下の者が、主君や親などを殺すこと。