護国神社 沿革
幕末の長州藩・薩摩藩等では、国事殉難者・戦没者の霊を祀るために招魂場を設けて招魂祭を営んでいた。朝廷においても1868年6月29日(明治元年5月10日)の太政官布告第385條・第386條により、1853年(嘉永(かえい)6年)以来の国事殉難者と伏見戦争以後の戦死者を京都東山に建立した祠宇(しう。霊山官祭招魂社、後の京都霊山護国神社)に合祀した。また同年7月21日(慶応4年6月2日)には、東征大総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が江戸城大広間において官軍戦没者の招魂祭を実施した。各地の藩主等も所属藩士の戦没地または縁故の地に招魂場を設けて祭祀を行った。翌1869年(明治2年)には東京九段坂上に「東京招魂社」(後の靖国神社)が創建され、戊辰戦争以来の戦没者を合祀した。
1871年(明治4年)の廃藩置県により、旧藩主又は人民の私設した招魂場は明治新政府の管掌下に置かれ、1874年(明治7年)には招魂場敷地の地租免除と、祭祀料・営繕費の官費支給が定められた。1875年(明治8年)には、1853年(嘉永6年)以来の英霊を東京招魂社へ合祀することになったが、各地の招魂場は従来通り存置されるとともに、社号が招魂社(しょうこんしゃ)に統一された。なお、1879年(明治12年)に東京招魂社は靖国神社(やすくにじんじゃ)と改称し、別格官幣社に列せられている。
1901年(明治34年)には官費支給対象の招魂社に「官祭」を冠することが定められ、支給対象外の招魂社は「私祭招魂社」と呼んで区別した。日清・日露戦争後、私費による招魂社(私祭招魂社)創建の出願が増えたため、内務省神社局は1907年(明治40年)に「招魂社創建ニ關スル件」(明治40年2月23日秘甲第16號内務省神社局長依命内牒)で招魂社の設置基準を定め、その祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加えて創建を抑制した。しかし、1931年(昭和6年)に満州事変、1937年(昭和12年)に支那事変(日中戦争)が勃発すると、戦没者の霊を郷土で祭りたいという要望が各地で高まった。
1939年(昭和14年)の「招魂社ノ創立ニ關スル件」(昭和14年2月3日発社第30號神社局長通牒)で、一部の例外を除いて各道府県に1社のみ創立を許可することとし、同年4月1日に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)で招魂社を護國神社と改称、それまで曖昧だった神社としての制度を明確にした。