明治維新政府の官制 明治8年の官制
明治6年9月21日(1873年11月10日)、大久保により「国内安寧・人民保護」をスローガンに、巨大官僚組織である内務省が設立される。大久保自らが初代内務卿となった内務省は、絶大な権力で内政を専管するだけでなく殖産興業政策を推進し、日本近代化のための司令塔として君臨した。西郷と木戸は政治活動における組織的基盤を持たなかったが、大久保は内務省と内務官僚という、自らが作り上げた官僚機構を基盤として、「維新のリーダー」のような強烈な個性で国を牽引するのではなく、組織や集団が着実に国の近代化を推し進める新しい政治スタイルへと転換させていった。
明治8年(1875年)1月、参議の大久保と伊藤博文は、征韓論などを巡って辞職した木戸と板垣に対し、参議に復職することを求めた(大阪会議)。同年2月に至り、立憲体制へ漸次的に移行することで一致し、2人の復帰が決まった。4月14日には立憲政体の詔書(しょうしょ)(太政官布告第58号)を発して、行政を担当する太政官・正院、立法を担当する元老院・地方官会議、司法を担当する大審院を置く三権分立制の基礎を形作った。この体制は、明治18年に内閣制度が発足するまで続いた。