明治維新政府の官制 明治の太政官制 ②

 

こうした中で問題となったのは、民部省と大蔵省の合併問題であった。徴税機構と財政機構の一本化を目指して明治2年8月11日に両省を合併、民部卿 松平春嶽が大蔵卿を、大蔵大輔(たゆう)大隈重信民部大輔を兼任した。今度は中央集権体制の確立を急ぐ木戸の支持を得た大隈や大蔵少輔(しょうゆう)ら開明派若手官僚の画策であった。一方、大久保らはこうした動きに対して、新省が太政官を上回る権限を持つとして反発し、他の参議や地方官と結んで大隈・伊藤の排撃と再分離を求めた。これには、大蔵省の管轄が広くなりすぎて、目配りが利かなくなり不効率になったことと、大蔵省の地方官が徴税徴兵令(予定)に対して農民に十分な説明を怠り、不満の声にも十分な対応をせず、結果、全国各地で農民騒乱が多発していたことが念頭にあった。大蔵省の地方官の中には、旧殿様気分で民情への配慮に欠ける人物もおり、地方行政を管轄する省が必要との意見が大久保を中心に出ていた。明治3年7月10日1870年8月6日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。

 

 

だが、最終的に両派の間で妥協が成立して、明治3年10月20日1870年12月12日)に殖産興業を専門に扱う工部省(こうぶしょう)の分離と引き換えに、明治4年7月27日1871年9月11日)に民部・大蔵両省の再合併が決定された。これは木戸への妥協という政治的事情だけでなく、新たに地方行政を統括する省のあり方を巡って、太政官内部での意思統一が出来ていなかったことと、大久保が旧来の民部省ではなく、自身が密かに青写真を描いていた内務省を新設して、内政全般を統括させることを考えていたからである。

 

 

明治4年に入ると廃藩置県に向けた政府内の動きが密かに動き出し、薩摩・長州・土佐3藩の兵を御親兵(ごしんぺい)として集めるとともに、郷里に帰っていた西郷隆盛と板垣退助を呼び戻した。