明治維新政府の官制 明治の太政官制 ①

 

 

こうした政治情勢の変動に対応して、明治2年7月8日(1869年8月15日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省大蔵省兵部省(ひょうぶしょう)刑部省(ぎょうぶしょう)宮内省外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院(たいしょういん)弾正台(だんじょうだい)集議院(しゅうぎいん)大学校などの諸機関が置かれた。

 

 

また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。三職は明治天皇に対して「三職盟約」・「約束四条」と呼ばれる誓約を行って天皇への忠誠と公正な政務を誓った。また、これに伴い「官位相当表」が改正され、左右両大臣は従一位または正二位、大納言は従二位、参議・卿は正三位、大輔(たいふ)は従三位、少輔(しょう/しょうゆう)は正四位とされ、また八位と初位の間に正・従の九位の位階が追加された。また、任命手続きにおいては四位以上を「勅授」・六位以上を「奏授」・七位以下を「判授」と呼んだがすぐに改められて、位階の授与については従来通り、役職の任命については勅任(ちょくにん)奏任(そうにん)判任(はんにん)と改称されることになった。

 

 

だが、蓋を開けてみると右大臣に三条、大納言に岩倉と徳大寺実則(とくだいじ さねつね)がついたのを始めとして主要官職を皇族と公家が独占して、わずかに参議に前原一誠(まえばら いっせい)・副島種臣、民部卿に前福井藩主・松平春嶽(慶永。まつだいら しゅんがく/よしなが)が武士階層から選ばれただけであった。保守派の画策によって木戸孝允大久保利通板垣退助らは閑職であった侍詔院学士に追いやられてしまったのである。これに反発した岩倉は、三条と相談して大久保と広沢真臣(ひろさわ さねおみ)(後に佐々木高行(ささき たかゆき)も加えて)を追加任命して巻き返しを図ったのである。