律令制の太政官
古代日本において中国から律令制を導入する際、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けた。太政官の原型は天武天皇の時代に形成された。初期の太政官は「納言」・「大弁官」という職があったが、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の段階で納言は大中小の3つに大弁官は左右大中小の6つに分割された。大宝令成立時に中納言は廃止されたが、4年後に復置されている。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である(因事管隷。いんじかんれい)。尚、天平宝字2年(758年)から同8年(764年)まで乾政官(けんせいかん)と改称されていた時期がある(官職の唐風改称)。平安時代になると、摂政や関白が天皇の代理として政治を執り行ったため、相対的に地位が低下したが、国政に関する最高機関として機能し続けた。武家社会の時代に入っても、鎌倉時代には政務機関として機能していたが、室町時代になると次第に形骸化が進み、単純に格式を表す職名になった。明治維新で律令制が廃止されるまで存在した。