国家神道 歴史 近世との関係

 

 

応仁の乱により、律令制のもとで神社を管掌した神祇官の庁舎が焼失してしまい、以来吉田家(よしだけ)白川伯王家(しらかわはくおうけ)が私邸を神祇官代として祭祀と神社管掌を継続していた。特に吉田家は寺社法度の制定によって江戸幕府より神社管掌を公認され、支配的な勢力となっていた。

 

 

幕末になると黒船来航などの外交問題が発生し、朝廷江戸幕府は全国の有力社寺に攘夷の祈願をおこない、また、民間では国学の隆盛から国難打開のために神祇官再興論が浮上していた。特にペリーの来航について幕府は直に朝廷に奏聞し、以後も、幕府は外交問題について朝廷の判断を仰いだため、朝廷の権威が次第に高まるのと相対的に幕府の権威は低下し、尊皇攘夷思想・討幕運動と相まって大政奉還及び王政復古の実現へと繋がった。

 

 

かくなる上で、幕府の大政奉還の後、慶応三年十二月九日の王政復古の大号令によって明治維新が始まった。平田篤胤(ひらた あつたね)思想に共鳴した平田派の神道家たち、また津和野(つわの)藩出身の国学者たちは明治維新精神神武創業(じんむそうぎょう)の精神に基くものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱していたが、王政復古の大号令には王政復古と神武創業の語が見え、従来理想として唱えられていた王政復古と「諸事神武創業ノ始ニ原」くことが、実際の国家創生に際して現実性を帯び、「万機御一新」のスローガンとして公的な意義を持つようになったのであった。

 

 

明治政府は新政府樹立の基本精神である祭政一致の実現と、開国以来の治安問題(浦上村(うらかみむら)事件など)に発展していたキリスト教流入の防禦のため、律令制の崩壊以降衰えていた神祇官を復興させ、中世以来混沌とした様相を見せていた神道の組織整備をおこなった。