国家神道(こっかしんとう)

 

国家神道(こっかしんとう)とは、大日本帝国国教、あるいは祭祀の形態の歴史学呼称である。「国体神道(こくたいしんとう)」や「神社神道(じんじゃしんとう)」、単に「神社(じんじゃ)」とも称した。

 

 

 

 

「国家神道」は広義には神道的な実践を国民統合の支柱とするもの、狭義には「宗教」とされた「教派神道」に対して内務省神社局によって統制されたものをいう。国家神道の定義によっては、内務省が神社を管掌する以前の神祇官、教部省による神社行政も含まれる。

 

 

大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていた。しかし、政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示し、また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。宗教的な信仰と、神社と神社で行われる祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある。

 

 

大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文・井上毅(いのうえ こわし)は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた。昭和に入ってから美濃部達吉(みのべ たつきち)や神社局には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。

 

 

1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。翌1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道は宗教・政治・教育を一体のものとした。

 

 

時代により、政府による国民への「神社崇拝」の奨励の度合いは異なった。官国幣社内務省神社局が所管し、新たな官国幣社の造営には公金が投入された。万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に、全国の神社は神祇官の元に組織化され、諸制度が整備された。当初、全国の神社は全て官有となり、全神職官吏神官)となった。だが、制度に未成熟な部分があり、神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。官国幣社の神職には官等を配し、位階、勲等を付与した。その多くは判任(はんにん)待遇としたが、一部は奏任官(そうにんかん)待遇(高等官。こうとうかん)とし、叙位の恩典も与え、退職後の恩給制度も整備した。村社(そんしゃ)以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われ、上級神職による神葬祭(しんそうさい)等の「宗教的な活動」を政府が厳禁し、一種の国教的な制度であったとされる。

 

 

第二次世界大戦後、GHQにより「神道指令」が出され、国家神道は解体へ向かったが、国家と神道を巡る政教関係については論争が続いている(日本国憲法第20条信教の自由政教分離原則津地鎮祭訴訟靖国神社問題等)。