斎宮の卜定から退下まで 退下(たいげ)
斎宮が任を終えることを、奈良時代から平安時代中期まで(8〜10世紀頃)は退出(たいしゅつ)と称したが、その後は退下(たいげ)または下座(げざ)と言った。斎宮の退下は通常、天皇の崩御(ほうぎょ)或いは譲位の際とされるが、それ以外にも斎宮の父母や近親の死去による忌喪(きも)、潔斎中の密通などの不祥事、また斎宮の薨去(こうきょ)による退下もあり、初斎院や野宮での潔斎中に退下した斎宮も多い。なお、伊勢での在任中に薨去した場合は現地に葬られたらしい(伊勢で薨去した斎宮として確実なのは平安時代の隆子女王(たかこじょおう)と惇子(あつこ/じゅんし)内親王の2人で、いずれも斎宮跡近くに墓所と伝わる御陵が残る)。退下の後、前斎宮は数ヶ月の間伊勢で待機し準備が整った後に、奉迎使に伴われて帰京した。
帰京の道程は二通りあり、天皇譲位の時は群行の往路と同じ鈴鹿峠・近江路を辿るが、その他の凶事(天皇崩御、近親者の喪など)の場合には伊賀・大和路(一志(いちし)、川口(かわぐち)、阿保(あお)、相楽(そうらく))を経て帰還するのが通例であった。どちらの行程も最後は船で淀川を下り、難波津(なにわづ)で禊の後 河陽宮(かやのみや)を経て入京した。
また、酢香手姫皇女以前の斎宮は酢香手姫皇女が任を終えて葛城(かつらぎ、かづらき)に移ったと記されるのみで、稚足姫皇女を除くと他の斎宮のその後は不明。単なる記載漏れか、当然帰るべき所(例えば宮廷の周囲)があったので省略されたか、それとも、酢香手姫皇女の移転先である「葛城」の記載が他の斎宮の移転先をも代表しているとみるか、様々に推測できる。