斎宮の起こり

 


日本書紀崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて宮中に祭られていた天照大御神大和国笠縫邑(かさぬいむら/かさぬいのむら)に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁(すいにん)天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴(いすゞ)の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁天皇紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べ、以後斎王は天皇の代替わり毎に置かれて天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として伊勢神宮に奉仕したといい(ただし史料上は必ず置かれたかどうかは不明で、任期などもそれほど明確ではない)、用命(ようめい)天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記(ふそうりゃくき)は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女 大来皇女(おおくのひめみこ)を捧げたのが初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。



なお、『扶桑略記』に初めて大来皇女が定められたとあること、同皇女の前任と伝える酢香手姫皇女すかてひめのひめみこ。用明天皇皇女)との間に約50年の空白期間があること、その以前の稚足姫皇女わかたらしひめのひめみこ。雄略天皇皇女)、荳角皇女ささげのおうじょ。継体天皇皇女)、磐隈皇女いわくまのおうじょ。欽明天皇皇女)、菟道皇女うじのひめみこ。敏達天皇皇女)、酢香手姫皇女が伊勢に来ていないと考えられることの3点から、酢香手姫以前の斎宮は後世の虚構とする説がある(筑紫申真(つくし のぶざね)説)。



また福岡県糟屋郡 久山町(ひさやままち)猪野(いの)にある天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐうには、仲哀9年200年)熊襲(くまそ)征伐の途中、「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣があったが、仲哀天皇が疑ったために、その祟りをうけ香椎宮(かしいぐう)で崩御し、そのことを知った神功皇后が、小山田(おやまだ)の村に斎宮を建て、自ら神主となり、天照大神を祀ったという 縁起がある。