風日祈宮 歴史

 


風日祈宮の由緒は定かではないが、804年延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』の「風神社」(ふうじんのやしろ)が初出である。風神社は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであった。



吾妻鏡(あずまかがみ/あづまかがみ。東鑑)1187年文治(ぶんじ)3年)に源頼朝が神宮に8頭の神馬を奉納したと記されている。その時の宮社のが風神社とされるが、外宮権禰宜(ごんねぎ)の度会光生が取り次いでいるので外宮の風社(現在の風宮)の可能性がある。



風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視された。



1281年弘安4年)の元寇では朝廷より二条為氏(にじょう ためうじ)大納言が勅使として神宮に派遣され、風神社と風社で祈祷を行なった。日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年正応6年)に風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮風宮となった。



江戸時代末期に欧米諸国が日本を訪れるようになり、1863年文久(ぶんきゅう)3年)5月に朝廷は風日祈宮と風宮攘夷の祈願を15日間行なった。



1975年(昭和50年)9月5日昼過ぎ、風日祈宮の社殿瑞垣御門の扉に向けて、ビール瓶に油を詰めた火炎瓶が投げられた。油に火がつき扉は炎上したものの、その場に居合わせた人が砂利をかけて消火したため、大事には至らなかった。折から三重県で開催されていた国民体育大会・三重国体への皇太子行啓に合わせて過激派が起こした犯行と見られ、近くからは天皇訪米に反対する旨主張するビラが見つかった(風日祈宮放火事件)。