伊勢神宮遷宮前後相論 徳川政権時

 


次の式年遷宮が話題に上がるようになったのは、慶長(けいちょう)13年(1608年)のことである。



神宮伝奏(じんぐうてんそう)大御所徳川家康の間で遷宮費用の負担についての協議が行われ、翌慶長14年(1609年)2月には家康から6万石分の兵粮米が造営費用として支給されている。7月頃から再び内宮・外宮の間でどちらを先に造営するかについての訴えが出され、外宮は後柏原天皇の綸旨、内宮は正親町天皇の綸旨を根拠として自己の優先を主張した。



後陽成(ごようぜい)天皇は同年に内宮→外宮の順で造営を行う意向を有していたが、神宮伝奏であった大炊御門経頼(おおいのみかど つねより)と神宮祭主に対して家康の意向を確認するように命じている(『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)慶長14年8月24日条)。これは6月に発生し、当時まだ処分が出ていなかった猪熊事件(いのくまじけん)の問題が残されていたために天皇が慎重な態度を示したと考えられている。



家康は天皇の意向のままにとする一方、日程については家康の意向を踏まえて宣旨(せんじ)の書き換えが実施された(『御湯殿上日記』慶長14年9月13日・14日条)。その結果、慶長14年9月21日に内宮が、その6日後に外宮の遷宮が実施されることになった(なお、『外宮慶長遷宮記』によれば、家康の日程介入前は23日遷宮の予定で準備が進められていたという)。



遷宮の日程は本来、天皇の権限であり信長や秀吉ですら関与をしなかった部分であった。そこに家康が関与するという事態は、造営費用の全面的負担や神宮の造営・警護を担当する山田奉行(やまだぶぎょう。江戸期の読みは「ようだぶぎょう」)の設置によって江戸幕府が式年遷宮に深く携わるようになった側面を考慮したとしても、猪熊事件の処理と並んで江戸幕府が朝廷内部に関与していく萌芽であるとも考えられている。



以後、朝廷及び江戸幕府の方針に基づき同じ年に内宮を先に外宮が同日もしくは3日後に遷宮を行うという慣例が確立されることになる。